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- 久しぶりに高校ラグビー
- バレンタインデーのお天道様からの素敵な贈り物
- スーダン人招聘
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- ハサン、砂金、そして高校時代の悪友
- ハルツーム大学学長解雇
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スーダン情報
本日まで、学会が開催されます。
昨夜は、大学主催の夕食会で、お酒はもちろんありませんが、歌と踊りも交えての楽しい会でした。
しかし、こういうものはボディブローのように、徐々に私に疲れをもたらします。
ハルツーム大学の先生方に気を遣い、欧米の先生方に語りかけます。
九大の先生方には、日本語で話すときには安堵感さえ漂います。
そして、本日学会の最終日ですが、私は昼ごろにスーダンを離れます。
その前に、九大の先生方をスーダンの病院と日本大使館にお連れします。
いつものごとく、飛行機はぎりぎりでしょう。
スーダンからカタールに行き、そこでちょっとした仕事をこなします。
それから、日本に到着して、別の仕事の打ち合わせがあり、
その翌日に学会発表があります。
家に帰ることなく、東京で数日を過ごさねばなりません。
そして、スーダン人医師が日本にやってきます。
怒涛の忙しさの、序盤戦ですが、しっかりと3月を乗り切ろうと思います。
今から先生方のお迎えにホテルに向かいます。
川原尚行
本日をオープニングセレモニーとして、明日明後日とハルツーム大学が主催する国際学会が開催されます。
昨年が第一回目で今年が第二回目となります。
スーダンは、南スーダンの独立が決定し、スーダンの国自体も新たな体制を考えないといけません。石油が南スーダンに集中していることを考えれば、それ以外での国を支えるものを作り上げなる必要があります。
それを学術に求めての、国際学会です。
その趣旨を大学側から伝えられたのは、今年に入ってからだと思います。
そのうえで、九州大学からも、この学会に参加してくれとの要請を受けました。
ただでさえ、忙しい大学ですから、絶対に無理だと思いましたが、スーダンのこの試みやよし!と思い、伝えるだけでも伝えようと大学側に連絡を入れました。
すると前原教授がすんなりと、人を派遣しましょう、との英断を下さました。
そして、九大から二名の先生が来られました。
本当に忙しい中、ありがとうございました。
また大学側から、学会期間中にロシナンテスの活動を紹介する展示を行ってもよいとのことで、内藤さんの写真を中心に活動紹介の展示を準備しました。
展示の案内人がいますので、ハサバッラ村からハサンに来てもらいました。
さて、オープニングセレモニーです。
全くどんな感じなのかつかめずにいると、初めて入る立派な部屋に通されます。
ここは、友好会館というところで、中国の援助で建設されたものです。
ハルツーム大学の面々がいて、九大からの先生方は、同様にして招かれた欧米の先生らとともに最前列に座っています。
私は、招待状もありませんが、いつものごとく厚かましく、ここに入り込み、
会場係から
「外交官の方ですか?」
と問われると
「はい、そうです」
と答え、心の中で「以前ね」と付け加えます。
これで、私も最前列に座れます。
7時開始予定が、スーダン時間で8時からのスタートです。
警備の人に囲まれて、大統領が登場、国歌が楽団により高らかに演奏され
式が始まります。
スピーチがはじまり、最後に大統領のスピーチです。
私の隣の人がやたらと大きな拍手をしているので、聞いてみると
「私は彼と一緒に革命をしたんだよ。
ただし、俺は引退したけどね」とのこと。
「革命」をした、と言葉にできる人は、そんなにいません。
その言葉だけに、隣に座る人の威厳を感じました。
さて、そのような式典で最前列に座る私のすぐ後ろにハサンが座っています。
「大統領が来たら挨拶にいこう」
と言っていましたが、そんなことはできません。
式典の最後に再び、国歌が演奏され、大統領は警護たちとともに退場しました。
大統領とハサンと九大からの先生、それに私の隣に座る革命を起こした大統領の友人と
私を取り巻く人々を考えるだけで、可笑しさがこみ上げてきます。
「みんな、同じ人間なんだ!」
と考えると、「ククク」となります。
式典が終わり、ロシナンテスの展示に行くと、人だかりができています。
ロシナンテスの活動に見入っているわけではなく、折り紙教室を同時開催したのですが、そちらにスーダン人女性が群がっているのです。
サッカーコーチの西條の奥様がいらしているので、奥様が一生懸命に折り鶴のおり方を説明しています。
この学会、明日明後日と続きます。
夜の10時過ぎまで学会があり、日本から来られた先生方と食事をし
ホテルに送り届けて、深夜に眠りにつきました。
そして、早朝4時ごろに電話が鳴ります。
「父さん!俺、合格したよ!」
なんと息子からの電話でした。
本当によく頑張りました。
高校時代のほとんどをラグビーに明け暮れ、結局花園に行けませんでしたが、そのあと猛烈に勉強して現役で合格を決めました。
「ラグビーを続けたいからこそ、一生懸命に勉強した」
そして、最後に大学では勉強も両立して頑張る!とのことです。
息子の頑張りが私の励みにもなります。
「よーし、頑張るぞ!」
川原尚行
昨年末、我が小倉高校が、福岡高校に敗退して、私自身が随分と落ち込みましたが、
福岡高校と筑紫高校の決勝は素晴らしい試合でしたし、花園での福岡高校の強豪本郷高校との劇的勝利や大阪朝鮮高校との、敗退しましたが熱い試合は、私の心を十分に揺さぶるものでした。
そして、東福岡高校と桐蔭高校の両校優勝で幕を閉め、もうすでに新人戦が始まっています。
福岡県予選は、小倉が福岡高校に勝ち、決勝で東福岡に敗退しましたが、これで九州大会に出場することができます。
2位グループのトーナメントですが、ここで優勝すれば春の選抜大会に出場できます。
そして、今日がその初戦、鹿児島実業に勝利したようです。
桜の花が、咲いて散り、また次の年に咲き誇るように、高校ラグビーのそれぞれのチームが蕾を膨らましかけています。
もう昨年のチームではありません。新しいチームが生まれ、それは新たな命の誕生といってもよいでしょう。
それぞれのチームに頑張ってもらいたいです。
そして、我が息子は、受験に向けて頑張って勉強しています。
今日19日は、東京の大学の受験でした。
ラグビーで大学に行こうとすれば行けたのですが、勉強をして一般入試を受けるとのことで、その意気込みやよし!です。
私も二浪しましたし、勉強もラグビーを頑張った時のように、精進してもらいたいです。
ただし、あまりに大学の名前にこだわらなくてもよいと思います。
勉学なんてものは、永遠に続くもので、アフリカに長くいるものとして日本の○○大学を出たなんて、だーれも、わかりはしないところですので、
喜びも悲しみも一緒にして、やがて、桜の咲く春がやってくるのでしょう。
川原尚行
先日のバレンタインデーのことです。
その前日にロシナンテスのスタッフの家が火事になりました。
こちらの家は、藁ぶき屋根ですので、面白いように燃えます。
火が付いたら、小さなうちでは、まだ消火活動はできるのですが、いったん屋根に火が付いたら、もうどうしようもありません。延焼をいかに防ぐかが重要となります。
火事のお見舞いに行ってきて、お見舞金を渡したところでした。
そして、次の日、栄養不良の子供のフォローに村の中を駆け巡り、それも終わり、その資料を整理していると、村人からの通報が来ました。「急患!」と思って、急ぎ準備をしていると「火事だ!」との声です。
診療所のスタッフと一緒に火事現場まで駆けつけます。
まだ、初期の段階でしたが、3つの家が燃えているのがわかります。
如何に延焼を防ぐかが問題で、燃えるものを火事現場から遠ざけ、限りある水を利用して延焼しそうな場所に重点的に消火します。
そして、燃え移りそうな家の中から家財道具(そんなにありませんが)を外に引き出します。
これを村の人総出で、行います。
私自身も、過去に火事に遭遇したことがありますので、上記の要領で、消火活動をおこないます。消火活動をしながら、江戸時代の火消しもこんなだったのかな、と思いを江戸時代に馳せながら行っていました。また火消という作業を行うにあたって、地域社会の結びつきも強かったのかと現在のスーダンの村の様子を見ながら思っていました。
結果、延焼は防ぐことができましたが、三軒の家が全焼しました。
ハサンの長男で新婚のアワッドの家も焼けました。
出火した家の夫人は、自分の小さな子供が焼け死んだと思い込み、そのショックで倒れこんでいましたが、隣の奥様が見事に助け出していました。
消火の後は、その夫人の手当てを行いました。
不幸中の幸いで、けが人は出ませんでした。
それから、100キロ先にあるガダーレフに車を走らせ、別の仕事をこなし、これも予想以上に時間がかかってしまい、再び100キロの道のりを、車を走らせ村に戻っていました。
たぶん、相当に疲労していたのでしょう。
国道から村に入る道(ここにロシナンテスの看板が立っています)を数メートル行き過ぎてしまいました。ほんのちょっとですから、バックすればよいのですが、国道が高くなっていますので、そこを降りるのに、ランドクルーザーだから難なく行けると勝手に判断しました。
しかし、車で国道を降りかけてから、考えを変え、やっぱりバックをしてきちんとした道から行こうと、バックを試みますが、後輪がスリップして動きません。
車から降りて、前方を確認しようにも、ハンドブレーキのみでは停止できないと判断し、
「えいっ!前に進め!」
と覚悟を定めて、前進させたところ、見事国道の下を走らせている排水溝に落ち込んでしまいました。
止まっていてから、溝に落ちたため、そんな衝撃はありませんでしたが、道行く車からは相当な事故のように見えたのでしょう、二台の車が停止をしてくれて、私のところに駆け寄ってくれました。私が生きていたこと、そして怪我がなかったことから、信じられないと救出した人々は口にしていました。
私は、怪我がないことよりも、数日前に事故が多いとロシナンテス日本事務局長からお叱りを受けたばかりで、その落ち込みのほうが大変でした。
頼みのハサンに電話をしますが、かかりません。
ガダーレフにいる辰野さんに電話をします。
辰野さんは、スタッフのフセインとともに現場に駆けつけるといい、電話を切りました。
やがて、村から大挙して村人がやってきました。
ハサンの車、救急車、小型トラックに大型トラックに人を満載して救助活動に来てくれたのです。
彼らの力を汗せて、ランドクルーザーを溝から引き上げることができました。
すごい!の一言です。
私自身、事故を引き起こして、怪我はなかったものの、心理的に相当に落ち込んでいたのですが、村の人たちが、私のところにやってきて
「怪我がなくてよかったね」
と皆が言ってくれ、その後、村の人たち総出の車の引き出し作業を見ていると、落ち込みから脱することができました。
本当に、私が助けているのか、助けられているのか、わかりません。
でも、ここに何か国際協力の本質があるような気がします。
彼らから助けられていると思えることこそ、国際協力の神髄のような
随分と甘えた感じですが、そう思えて仕方ありません。
その後、村の中に入ると、私の姿を見て涙ぐむ人までいます。
辰野さんがハサンの奥さんに電話をしたのですが、これがうまく伝わってなかったらしく、
「川原が交通事故で死んだ!」
と村の中でなっていたそうです。
その報せで、多くの村人が泣き崩れたようで、私の姿を見ると、今度は安堵の涙でした。
次の日、キャンディーを大量に購入して、村の人たちに配ってまいりました。
イスラムの世界では、何か不幸なことが起きて、そこから脱すると、こうして感謝の意味を込めて、配りものをします。
そして、素直な気持ちで、モスクに行き、感謝の気持ちをお天道様に伝えました。
村人たちは、
「お前は、立派なイスラム教徒だ!」
と口々に言っていました。
私は決してイスラム教徒ではありませんが、私のやっていること、思っていることはイスラム教徒と同じだと言われます。
火事から事故まで、私と村の人たちの心をつなぐものでした。
素晴らしいバレンタインデーの贈り物をお天道様から、いただきました。
川原尚行
現在、母子保健事業を行っており、この関連でスーダン人医師を二名日本に招聘する予定です。時期は3月の8日から10日間です。
私は今まで何回スーダン人を日本に迎え入れたでしょうか?
まずは、05年に外務省を辞して初めてしたのが、イブン・シーナ病院のバーハ先生でした。
彼を日本に迎え入れるために、方々に頭を下げて、支援をお願いし、ついに福岡空港で彼の姿を見たときには、自分自身本当に感動したのを今でも覚えています。
今年も寒い冬ですが、あの時もとっても寒い二月でした。
大半が40度以上のスーダンから来られて、さぞ寒い思いをされたでしょうが、バーハ先生は雪を楽しまれました。
それが最初で、同病院のドクターを2回と看護師を呼びましたし、
ジェジーラ州の医師も呼びました。
スーダン大学、そしてスーダン政府関係者も招聘しました。
最近では、ハルツーム大学の学長以下4名の教授もお招きしました。
数えると18名のスーダン人を日本に招聘したことになります。
その大多数が我が実家に宿泊しています。
当初は、私がつきっきりで通訳として世話をしていましたが、最近では
私なしでも、私の母が対応してくれます。
別に英語を話すわけではありませんが、人をもてなすのには、語学力ではなく
気持ちだと、母は教えてくれます。
またしても、今回お世話になります。
母に感謝です。
今回は、非常にハードワークで、10日間のうちに、
北九州での母子保健の現場の視察、これは大学レベルから助産院レベルまで幅広く視察を行ってもらおうと思っています。
さらに、彼らは行政官でもありますので、日本の母子保健の行政に関しても協議ができる場ができればと思っています。
東京にもお連れし、駐日スーダン大使館、そして私の千葉県柏市での講演、
長崎もお連れし、原爆資料館、そしてそこでの講演にも参加してもらおうと思っています。
スーダンの方が来られると、必ず広島か長崎を見てもらうようにしています。
これは、日本人としての責任とすら、感じています。
さらに、彼らが日本の田舎を見てみたいと言っていますので、どこか田舎でも一泊と考えています。
交流事業は、手間と時間がかかりますが、長期的に見て、これほど日本の国際協力のためになるものはないと確信しています。
このスーダン人の日本招聘の前後に、日本の医師の、そして日本の学生のスーダン訪問があります。
考えるだけでも、大変なことですが、頑張りたいと思います。
川原尚行
昨日、正式に住民投票の結果が出され、そしてスーダン政府がこの結果を了承する旨、発表したため、南部スーダンの独立が正式に決定されました。
暫定移行期間を経て7月9日が独立となります。
ロシナンテスが、昨年12月に企画していた南北スーダン親善少年サッカー大会ですが、
南部スーダン政府の意向により、延期となりましたが、是非とも今年中には、この大会を開催したいと思います。
まずは、時期の問題があります。
南北の行き来が自由な7月以前に行ったほうがよいという考えや、南部スーダン政府が正式に発足した7月以降がよいとの意見もあります。
いろんな状況を見つつ、時期に関しても決定したいと思っています。
前回企画した際には、北部政権は、「スーダン統一」声高に主張していましたので、このイベントに関して全面的に賛成してくれました。スポーツ大臣自らが、この大会に出席してくれるとのことで航空機のチケットまで用意していました。
これが、状況が変わりましたので、双方の政府に意向を伺いたてないといけません。
極めて面倒な仕事ですが、やり遂げようと思います。
南部スーダンが独立しても、隣国同士ですから、如何に南北スーダンの協調関係を築き上げていくのかが、今後の課題だと思います。
川原尚行
ロシナンテスは現在母子保健事業を行っていますが、この中で赤ちゃんの誕生の報告がなされるたびに、自然と笑みがこぼれてきます。
人間の当たり前のことが、自分の目の前で行われることが、笑みにつながっていくのでしょう。
さて、「生」に多く接する機会があれば、「死」に接する機会もあります。
昨日がそうでした。
村での診療では、不十分で、首都のハルツームまで車で連れて行き、入院させたのですが、手遅れの状態でした。2歳の男の子でした。
男の子の遺体の処理をお父さんと一緒に行い、ハルツームの墓に埋葬しました。
お父さんは、棺を買うお金もなく、穴を掘り、直接に遺体を穴の中に入れます。
その上に大きなレンガを置くのですが、そのレンガと遺体の間に隙間ができるように、非常に気を使っていました。そして穴を埋め、埋葬が終わりです。
通夜もなく、あっけないものですが、こちらの習慣として埋葬を真っ先に行い、その後葬儀が数日間続きます。
お父さんが、
「これも神様がお決めになったことですから、受け入れるしかありません。ロシナンテスの皆様にはお世話になりました。」
と言ってくださりました。
私の子供が2歳で亡くなったことを考えると、とてもこんな風には振る舞えないだろうな、と考えながら、「死」というのが、あるからこそ、「生」あるものへの愛しさが芽生えるものだと感じました。
「生」あるものへの尊重と、私自身の「生」を大切にしなければならないと、この2歳の男の子の「死」が教えてくれました。
川原尚行
政治の話は別にして、われらがハサンの様子をお知らせします。
砂金を探しに砂漠に行ったハサンが元気に村に戻ってきました。
先日、ハサバッラ村を管轄する市長さんのお宅にお邪魔した際に、ハサンの話になり、
「ハサンは、砂金を取りに砂漠に行ったんだよ」
と、市長もご存じで、
今日は、隣村の患者さんを診察しに行った際にも、隣村の人たちからも
「ハサンは金を見つけてきたのだろうか?」
と、私に問いかけられました。
ここは、プライベートというものがなく、面白いくらいにハサンの動向を皆が知っています。
結果は如何だと思います?
「砂金などなかった!」
とハサンは言います。
みんなは、
「そうだろ」
と、頷きます。
そして、私と二人になった際に
「ドクトール、実は砂金は見つかったんだよ」
驚く私は
「すごいじゃない!」
「見つかったのは見つかったんだけど、あるのがわかっただけなんだ。
だから、今後掘り出さなけりゃいけないんだ。
ドクトール、力を貸してよ。ブルドーザーが必要なんだ。
もう中国人、エジプト人がたくさん金を探しに来てたよ。
はやくしなきゃ。
砂金を見つけたら、そのお金でこの村を立派な街にしたいんだ!」
とのことで、どなたかブルドーザーをお持ちの方がいたら
ロシナンテスの川原までご一報くださいませ(笑)。
そして、その直後にシンガポールの高校時代のラグビー部時代からの親友の大島から電話がありました。
当然のごとく、彼は酔っぱらっています。
シンガポールで泥酔して、日本に電話を掛けると皆に迷惑がられるのですが、
スーダンにかけてくるのは時差の関係上問題がないのです。
年に数回、こうやって泥酔して電話がかかってきます。
「川原、俺は今シンガポールで発破をかけたら日本一よ!」
「すげえな!狭いシンガポールだから、ビルをぶっ壊すの?」
「違うよ!地球をぶっ壊すのよ」
「今度、シンガポールに来いよ、一緒に酒を飲もうぜ」
「なかなか行けなくてごめんよ、今度帰国する時は途中に寄るよ。
大島こそ、スーダンに来いよ!あっ!そうだ!砂金を探しに大島が隊長になればいいよ!
得意の土木技術で、一攫千金を当ててよ!ハサンを紹介するから」
と、酔っぱらった悪友を笑い話をスーダンとシンガポールの間で行うのでした。
思えば、大島とは1998年に私がタンザニア、大島がタイへと日本を離れた後、
二人とも日本をずっとあとにしたままになっています。
出国する前に東京で酒を飲んだことを思い出します。
いつか、一緒に何か仕事ができたらよいなあと夢見る私です。
川原尚行


