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スーダン情報
私が以前、ある団体の東京事務所に勤務していた時、スーダンに駐在している日本人スタッフがこんなメールを送ってきました。
「事務室で書類仕事をしていると、現地スタッフのサイモンさんが外で何か起こっているようだと教えてくれた。
外を見るとすべての人々がみんな走っている、いや逃げている。
いったい何が起こったのだろう。走っている人に聞いてもわからない。
騒ぎは30分ほどで終わった。
ちょうど町の方からやってきた知り合いのドライバーさんに聞くと、
『別に何もなかったが、商店はすべて閉まり道には誰もいなかった』と言う。
サイモンさんは『おそらく最初の数人が逃げろといって走り出したので周りの人たちも走り出し、町中がわけのわからないまま騒然となったのだろう』と言った。
何事も無いと分かったので、周りが逃げ出すと自分も逃げるという習慣をみんなで笑った。
後で一人になって考えると、内戦中なら誰かが逃げていれば自分も逃げるのが当たり前。
逃げ遅れればそれは死を意味する。
20年もの内戦の間にこんな習慣が身についてしまった人々が気の毒でならず涙が出てしまった。
平和な時代が訪れたとはいっても人々の心の中にはまだまだ戦争の傷跡が残っていることを実感した」。
これを読んだ時、私は自分がカンボジアにいた時の経験を思い出しました。
97年のことです。
ある朝、首都プノンペンの郊外で大きな爆発音が鳴りました。
それは不発弾を処理した音だったのですが、
普段はそういった処理の時は事前にアナウンスがあるのにその日はありませんでした。
その音に人々は皆驚き、町中の店はシャッターを降ろし、多くの人々が荷造りをして田舎に逃げる準備をし始め、町中がパニックのような状態になりました。
その時カンボジアに駐在して5年になる私は、その人々の反応が理解できませんでした。
カンボジアの内戦が終わってからもう10年近く経ちます。
海外からの援助もたくさん入り、復興への道を順調に歩んでいるように見えました。
もう今更内戦に逆戻りすることはあり得ないだろうと私は思っていました。
だからカンボジアの人々の反応があまりに過敏に思えたのです。
でも結局私が間違っていました。
その出来事からほんの4ヵ月後、プノンペンでクーデターが勃発し、町を戦車が走り、私が住んでいた家の近くに砲弾が落ちました。
私が生まれてこの方、最も怖い思いをした瞬間でした。
その時に、長く住んでいるにもかかわらず自分のカンボジアの人々に対する理解が如何に浅かったかを思い知りました。
今もスーダンの友人から内戦時代の話を聞く度、
自分の想像力が問われているような気がします。
いくら話を聞いても、写真も無い、文献も無い。
当時の彼らの困難さを、正直言って中々想像できていない自分がいます。
日本の多くの人々にとってアフリカの出来事は感覚的に遠い、というようなことがよく言われますが、私はアフリカの地に身をおきながら、情けない話です。
いわま


